天才と凡人

 『天才は凡人に比してはるかに偉大なることに堪える。・・・

ある人がなし得るところをある人はなしえない。ある人が到達し得るところにある人は到達し得ない。ゆえにあることをなし得るかなし得ないか、ある点に到達し得るか得ないかを主要問題とするとき、各個人の天分はその性質について問題となるのみならずまたその大小強弱について問題となる。この方面から見れば各個人の価値はほとんど宿命として決定されていることは否むことはできない。しかし観察の視点を外面的比較的の立脚地より内面的絶対的の立脚地に遷し、成果たる事実の重視より追及の努力の誠実の上に移し、天分の問題より意志の問題に遷すとき、吾人の眼前には忽然として新たなる視野が展開する。従来如何ともすべからざる対照として厳存せしものは容易に融和する。そうしていっさいの精神的存在は同胞となって相くつろぐ。この世界にあってはおのおのの個人がその与えられたる天分に従ってそれぞれ彼自身の価値を創造するのである。そうしてこの創造によって「人間」としての意義を全くするのである。内面的絶対的見地よりすれば、三尺の竿を上下する蝸牛は、千里を走る虎と同様に尊敬に値する。そうして虎は蝸牛を軽蔑することの代わりに、千里の道を行かずして休まんとする自己を恥ずる。蝸牛はその無力に絶望することの代わりに、三尺の竿を上下する運動の中にその生存の意義を発見する。』三太郎の日記より

 天才と凡人とでは、当然なし得ることが違います。しかし、内面的絶対的見地から見ると、天才(虎)と凡人(蝸牛)の生きる姿勢は、同じ土俵に立つことができます。どこまでも人として忘れてはならない視点だと思います。